*****
涙のつめたさを知った。
雨のつめたさを知った。
ほんとうの孤独はないのだと、誰がいっただろう。
あいするもののためならば死んでも構わないと、誰がいっただろう。
あいしているからこそ死んではならないと、誰が教えてくれただろう。
知っていたからこそ。
亡きがらが詩を囁くことはできない。
萎えた腕で恋人を抱くことはできない。
できないのに。
せめてこの剣をよすがに。
何度でも、思い返して唇に乗せて。
水のそこに沈んだ恋歌が、すり切れるほどに、すり切れても。
……せめて。
それだけは確かなものだから。
1.
「お仕事の依頼ですかぁ」
シエラは、「鷲の止まり木亭」の主人・オッシュのことばに首をかしげた。
冒険者だった当時は“鉄の男”などと呼ばれていたオッシュは、うなずくと、錆び付いたような声で説明した。
かれの知り合いの詩人が、なにかの厄介ごとに巻き込まれたらしい、というのだ。
「信頼のおけるものを、というご希望でな。腕が立てばもっと望ましいそうだが、特に、その性根が重要らしいな」
暗に、「だからおまえさんでも大丈夫だろう」と告げている。
「もっとも、仕事の内容は教えてはくれなくてな。まあ、その詩人――クロードというんだが――については問題ない。少なくとも信用はできる」
紅茶のシフォンケーキを口に運びながら、シエラは相づちを打つ。
「でも、私は本当に、腕が立ちませんよ」
「別に、おまえさん一人に頼むわけじゃないからな。それに、魔術師っていうのは、他のものと組んでこそ、その力を発揮するもんだ」
「私、まだ“術士”ですよ」
魔術の使い手は、その名前によって格付けがされる。
術士とは魔術の初心者を指し、それが経験を積むと魔術師と呼ばれるようになる。自分の色をまとうことを許され、仲間からも一人前の魔術師と扱われる。高位の魔術師を魔導師といい、宮廷に召し抱えられるほどの位である。そして、数多くの魔法を操り、大自然にすら干渉することのできる力を持つものが、魔法使いだ。荒野に塔を持つこと、かれら専用の領域を持つことを認められる。大魔術師と別称される。
そんなことを知らない一般人は、魔術を使えるものは全部ひっくるめて“魔術師”といってしまうのだが。
そんな、昔、仲間だった魔導師から聞いた話を思い出して、オッシュはあごをなでた。
「術士だろうと魔術師だろうと変わらんさ。だいたい、おまえさんは仕事をほしがっていたんじゃなかったのか」
エルフの少女は曖昧にほほえんだ。
ほしがっているのは、仕事そのものではない。
それでも、シエラは諾といった。確かに、お金もないのだ。
2.
紫堂霧雨は、前後どころか左右も上下もわからない状況だった。
故郷は遙か海の彼方にあり、自分が踏んでいる大地は、生地とはまったく違う形の文化に支配されている。ここが、おさないころに、母親が寝物語に話してくれた大陸なのだろうか?
石の建物ばかり。木の家は、城はどこにある? 町民は何故みなこんなに着飾っている? こんな風に町を石壁で囲むのはどういうわけだ?
疑問のほうはつきないのに、持ち出してきた銀は底をついた。さいわい、浜辺に流れ着いたかれの世話をして、この都(故郷に比べて、なんと大きいことか!)までつれてきてくれた商人は、この大陸について、それから、お金の稼ぎ方についても教えてくれていた。どこでも、剣を使えるものの需要は豊富らしい。その商人が、霧雨と同じ故郷を持つ人物と知り合いで、だいたいのことを察していたことは、不運なこの忍者にとって、信じがたいほどに幸運なことだった。(このつけはいつ回ってくるのだろうか? それとも、この大陸での生き方を知ってしまったのが実は不運なことだったのだろうか?)
いわれたとおりに、霧雨は、酒場へとやってきた。建物が所狭しと入り乱れているので混乱してしまいそうだったが、どれがそれで、どれがそれでないのかは、なんとなく、雰囲気でわかった。節くれだった木の枝に、翼を広げた鷲が飛び降りようとしている看板の店、そこに、遠い島からの異邦人は入っていった。
「む……」
どこの世界でも、こういった店の雰囲気は変わらない。覚悟はしていたが、それでもつんと鼻を突く酒精の香り。霧雨は、くらりとするものを感じながら、何とか店の奥へと足を進めていった。
そこで、酒場の主人と話し込んでいた少女と同行することになったのは、果たして、霧雨にとって幸運なことだったのだろうか。それとも――?
3.
ミネルヴァ・ラ・ルーラは、バーマード地方西部地帯の草原を領域とするある遊牧民の部族の出である。この部族は創造竜ヴァールパール・ローフを部族の守り神として信仰し、その再臨のために、ある一定の年齢になると大陸を旅して周ることを掟として定めていた。「創造竜の再臨成れば、部族は永遠の繁栄を得る」と。信仰と掟が形骸化し、伝説も長いときの中で廃れ、伝承としてしか残されていなかった。
だが、ミネルヴァだけは、なぜかその伝承を信じていた。いや、信じなければならないとさえ、思っていたかもしれない。緩慢にこの大陸に歩みを進めてくる破局の音を、彼女は無意識に感じ取っていた。
大陸随一とされる大都市、騎士王国シルヴァードの首都に住み始めるようになってから、ミネルヴァにはある習慣ができた。冒険と冒険の合間、憩いの広場に足を運び、そこに訪れる吟遊詩人の歌を聴くこと。それは、彼女の密やかな趣味だった。
詩人、かれの名前はクロードというらしい。繊細でややもすれば壊れそうな旋律の中に、火のような力強さを感じさせる歌声が好ましかった。クロードは古風な、人によっては古くさいと斬り捨ててしまいそうなかっこうをしていた。知る人が見れば、それは、数十年前、今は崩壊した旧シルヴァード騎士団の平服と酷似していることに気が付くだろう。
クロードは、今日も、音を奏で、歌を吟じていた。
ミネルヴァは、今日も、それを聴きに来ていた。
4.
「今日も美しい曲ね」
噴水の石囲いに腰掛けながら、ミネルヴァはクロードに声をかけた。
かれが一曲を奏で終えて、どこかやるせない面持ちで竪琴をおろすのを見て、なぜだか放っておけないものを感じたのだった。その曲は、彼女がはじめて聴くものだった。ほかのものと同じく、静かだが荒々しい。だが、
「けれど、なんだか、焦っているような感じだった」
「あなたは――」
少し目を丸くしていたクロードだが、あいてが、いつも背景の方で(ほかの聴衆の後ろばかりにいてけっして前の方にはこない)自分の曲をきいてくれている女性だと気づいて、目の端にほほえみを乗せた。
近くで見ると、よくわかる。ミネルヴァは思った。
たくましい体に不似合いな、華奢で、白皙とさえいえる顔立ちに、曲調に潜んでいたものと同じ焦りの印象が、そのまま影を落としている。
じっと見つめるミネルヴァに、クロードは笑ってみせた。
「ええ、まあ、いろいろとありますから」
無理をしているのがあきらかなほほえみに、ミネルヴァの胸には妙な義侠心がわいてきた。
「よければ、話してくれないかしら。協力できるかもしれない。わたしはね、こうみえても冒険者なのよ」
それで、気が付くと、そんなことばを口にしていた。口にしてから気づいたが、どうも、自分は最初からそのつもりで彼に声をかけたようだった。
他人事とは思えない――そんなことを考えながら、彼女は、クロードに、改めて視線を向けた。
無理な笑顔はすっかり消え去っていて、夢から覚めた、とでもいうような表情をしている。それは、暗闇の中に取り残された子供のそれを彷彿とさせた。詩人は、ゆっくりと目を閉じ、ゆっくりと開いた。その動作だけでよけいな感情がきれいにぬぐわれて、自然な表情に変わったのを、ミネルヴァは感嘆しながら見ていた。
「……ほんとうは」
くすりと、クロードが笑む。
「ギルドの方に冒険者の募集もしていたんです。でも、振られてしまったみたいですし、もう時間がありませんから……あなたにお願いしても、よろしいでしょうか」
ミネルヴァは笑い、部族のことばで、答えを返す。
「ドゥ・リヴ(もちろん)」
5.
賑やかな場所は苦手だ。
噴水のある広場に近づくにつれて濃くなってくる人の波に、霧雨は居心地の悪さを感じていた。それを持て余しながら、
「あと二人、だったか」
ぼそりと囁かれた言葉に、応えはない。
聞こえなかったのかと考えてもう一度口を開く。
「…………」
振り向くと、シエラが透明な表情でかれを見上げていた。彼女のギヤマンのような瞳に、霧雨自身の瞳が映し出されている。ぎくりとして霧雨が足を止めると、シエラも止まった。
それから、ぽつりと言う。
「首が痛いです」
沈黙する、霧雨。シエラが続ける。
「霧雨さんは、とっても背が高いですね」
身長差がありすぎて、自分の顔を見ようとすると無理な体勢になってしまうのだ。……と言っているのだろうか。霧雨は考えた。問うてみると、頷きが帰ってくる。
「私の背が伸びるか、霧雨さんがもうちょっと縮んでくれたらちょうどいいんですが」
「そうか」
他にどういう言葉も思い浮かばず、とりあえずそう言ってみると、シエラは真剣な顔をする。
「これは大変な問題ですよ」
「……そうか」
「何かいい方法はないでしょうかねー」
「…………」
竹馬という玩具を思い出して、霧雨はシエラに、その形状と使い方を説明する。
「あ、それはいいかもしれません」
ぱっと顔を輝かせたりする。――と思ったら、ぶつぶつと呟きながら考え込み「でもそうすると今度はバランスをとるのが難しそうですね……」
後から合流してくるという冒険者のことを聞きたかった霧雨だったが、仕方なくそれを諦めた。
6.
噴水にたどり着いたのは、それから五分ほど経った頃だ。
楽器を持った人物はちらほらと見受けられたが、オッシュの言葉にあった「すぐにも霞んで消えてしまいそうな」雰囲気の持ち主は一人しかいなかった。
かれは鳶色の髪に瞳、白い肌、それから小さな弦楽器を持っていて、褐色の肌の女性と何かを語らっていた。
シエラが声を掛ける。
「こんにちは、あのー……クロードさんですか。ギルドの紹介で来たんですがー」
男性は頷きを返す。
「――すると、オッシュさんの紹介の方でしょうか」
「はい、そうです。……えっと、あなたも、冒険者の人ですか」
その質問を受け、ミネルヴァはシエラに、少しだけ微笑みを見せた。
「ええ、わたしはミネルヴァ。よろしく」
「はい、よろしくお願いします。私はシエラです。えーと、……」
霧雨の方を向くと、かれは空を見上げている。「……霧雨さんです」
言いながら、(何か見えるのかな)と、霧雨が見ているあたりをシエラも見上げてみる。
なんだかとても気持ちのいい天気だ。
「……多分、信用できると思うわ。挙動は不審だけれど、妙な目的を持って近づいてくるならギルドの名前は出さないでしょうし」
不思議な行動をとる二人を横目に、ミネルヴァはクロードに話す。
「ええ、自分には人を見ることはできませんから。お任せします」
それに、と付け加える。
「オッシュさんが寄越して下さったのなら、大丈夫だと思いますし」
岩のような男の姿を思い出し、ミネルヴァも頷く。
「そうね」
けっきょく、この三人でクロードの依頼を受けることになった。
後から来るという話だった二人の冒険者は来ず、シエラは残念がった。以前、彼女と共に依頼をこなしたことがあり、とても経験豊富な人物たちだったという。
それほど頼りになるのならば、と、ミネルヴァは待つことを提案したが、クロードは時間がないのだと言い、酒場に伝言だけを頼んで出立した。場所は、シルヴァードの都の近郊にある山だという。依頼の内容については、到着するまで待ってほしいとのことだった。
そして夕刻、かれらがたどり着いたのは、荒れ果てた山荘だった。
07.
山荘を見渡しながら、考え事をするように霧雨はあごに手を当てる。
その庵はとても古く、度重なる補修を受けてようやく、風雨の中に生き延びてきたといった風情だった。壁は所々が傷み、脆くなっており、腐食してすらいる。
(なんていうところに住んでるんだろ)
シエラはそう考えた。
霧雨は単に、古いな、とだけ思った。
「ここです。……皆さん、お疲れではないですか」
「いや、問題ない」
「そんなに疲れてないですよ」
ミネルヴァも頷く。クロードは、微笑んで見せた。無理が見られる表情だ。
「そうですよね、冒険者の方々ですものね」
心ではクロードを気遣いながら、口では淡々と、霧雨はいう。「それよりも依頼の内容を――」
クロードは「ええ」と応え、皆を中に誘った。
山荘の中は、外で得た印象と比べて遙かに清潔さを感じさせた。小綺麗でよく整理されており、無駄なものは一切なかった。壁、床、天井、小さな卓と椅子、暖炉。それから奥に扉が一つ。挙げられる景色はそのくらいしかない。クロードは椅子を勧めて、自分は水を汲んでくる。
そして席に着いたクロードに、シエラは、とうとう依頼が始まるのだと緊張を感じる。
「今からお話しすること」
中に吸い込まれて消えてしまいそうな声。
「どうか、他で話したりしないと、誓って下さいますか」
ほんの短い時間だけしか触れていなかったが、クロードは、この冒険者たちに対して、この前置きが必要ないことを知っていた。それでも、確認せずにはいられなかった。
これからかれが話すことは、秘められなければならないことだからだ。
「わかった、口外しないと約束するわ」
シエラと霧雨も諾と答える。
「言いふらしたりしませんよ、信頼業ですしね」
「約束しよう」
霞むような笑顔を見せて、クロードは立ち上がった。
「ありがとうございます」
それでは、こちらへ……三人をつれて、かれは隣の部屋の扉を開けた。
隣室には寝台が一つ。それだけが置いてあった。
窓にはしっかりとカーテンが引かれており、他に調度品もない広くもない部屋は、外のと隔絶された世界、時間が止まったままの世界、そんな言葉を思わせた。
一人の女性が眠っている。
寝台の上、金髪の人間の女性だ。
一瞬、死んでいるのかとさえ思わせるほどクロード以上にひっそりとしていて、“すぐにも光に溶けて消えてしまいそうな”気配をしていた。
「綺麗な方ね。でも、お休み中に覗いたりして、悪いんじゃ……」
気遣うミネルヴァに、クロードは首を振って見せた。痛ましい表情でいう。
「心配いりません。彼女は……死んでいるも同然なんですから」
女性の顔に愛おしむ視線を向けて、
「彼女は、フォレスティのシーラといいます」
その言葉を聞いて、霧雨がぴくりと眉を動かす。フォレスティのシーラ、その名前に聞き覚えがあった。
クロードは霧雨の目を見つめ、頷く。
「……美人ですね」
シエラは呟いた。
霧雨は何か考え込んでいる。
ミネルヴァは首をかしげていた。
「依頼の内容は、シーラを目覚めさせること。永遠に、永遠に眠り続けるシーラを、……どうか、助けてやって下さい」